OTAKUとモーヲタの接点

新横浜ありなちゃんて・・・



はなちゃん見たさに毎週慣れもしない美術のうんちくを無理矢理
頭に詰め込みながら見ているNHK教育の「新日曜美術館」の本日の特集は
「都市を変えるポップカルチャーOTAKU・おたく」という題材。
みうらじゅんしかやらないような仏像鑑賞を普段から趣味としているはなも
さすがに今回は手強かったと見える。はなちゃんの口から「オタクな人」なんて言われると
どうにも蔑まれている感情が1.5倍増しに思えるのは自虐の念か。


「第9回ベネチア・ビエンナーレ建築展」の日本館が舞台として上がっているあたりに
OTAKUカルチャーのポップ性と主催した建築家の建築家ならではの都市論が展開されているのは
至極理解出来るのだが、それはしかし、「イコールOTAKUが必ずしもアート」な訳ではなくて
OTAKUではない人からするOTAKUカルチャーと、OTAKUである人のOTAKUカルチャーが
イコールにはないとの同じ感覚だろう。


OTAKUでない人はOTAKUカルチャーの先に更に別な物を見る点が大きな違いだと思う。
OTAKUである人はまず求める対象が存在していて、それを深く追求し嗜好した先に
コミュニティーやカルチャーが生まれる。
OTAKUではない人にはまずそれの取っ掛かりが、ない。
OTAKUなカルチャーを「OTAKUなカルチャー」とした総合的観点からまず見る。
個々の嗜好性がない分それは大きく感覚が散乱し錯覚を起こす。
その錯覚を「アーティスティック」に解釈する。そしてそれが「アート」にそのままなる。
番組で登場した建築家も精神科医もリサーチャーも同じだ。
だからOTAKUであることの大きな定義は番組の言葉を借りるのであるならば
「萌えの対象」が存在するかどうかが大きな境目になるだろう。


娘。の持つアート性にも勿論魅了されて止まない我々モーヲタだが
窓口は楽曲だったり個別の娘。だったりどうであれ、やはりそこには「萌え」が存在する。
モーヲタのエモーショナルな「萌え」はOTAKUの「萌え」と同じではないが。


楽曲に求める「モーヲタ的萌え」は、曲という媒体がアーティスティックな部分なので
萌えではないのでは?と思うかもしれないが、これは娘。の持つ曲が
ナニかしらの「萌え」ワードを散りばめている事から理解できる。
「ラブマシーン」「恋のダンスサイト」は80'sリバイバルの先駆け的な熱気を
萌えとして組みこみ、「恋愛レボリューション21」は「ちょうちょうちょうイイ感じ」の
フレーズの持つ強さだったりの萌えがある。
曲自体は全然アートに見えるどころかむしろ対極にあるところは
世間の反応・評価を見ても明らかだ。


個別の娘。メンバーへの萌えはそのままOTAKUな萌えと結びつき易い。
萌えの大小の振り幅はあるが、キャラクターたる娘。メンバーへのモーヲタの限りない愛が
彼女達を現在までのポジションとして継続させている所以だ。
モーニング娘。セーラームーン論」もどこかで見たような気がするが当に真理だろう。
話しは逸れるが、アニメが色んな意味で大反響な赤松健ネギま」も娘。オマージュが
あるとかないとかの記事があるそうな。


OTAKUなカルチャーを海外で紹介する事の成功は「確かには」ないと思う。
番組ではどこの国にもその手の物を嗜好する人間は存在することを上げられているが
OTAKUとしての文化がここまで隆盛したのが日本の特色で、海外のOTAKUが日本のOTAKU
興味を示しこそすれ、真に理解するには日本に永住でもしない限り不可能だろう。
しかし、娘。の萌えを理解するのは可能だ。彼女達には「歌」が最大の武器だ。


音楽のボーダーはそれこそ世界を飛び越える。次元すら飛び越えるから。
アイドルグループが各国に存在するのも、やはりそこには「歌」が大きく作用している。
今までのモーヲタ内の閉鎖的な「萌えの振り幅」を外に持っていくことが
今後の娘。の、モーヲタの大きな問題の一つに挙げられるだろう。
さもないとアスカに「気持ち悪い」って言われてしまうのが関の山ですよ。