ぷよぷよやりたくなってきた

これはヲタの一例です

ヲタクの存在ってのははばかれてなんぼで、決してそれは肯定的にはなりえないのを
もって教えてくれる我等がヲタアニメ「げんしけん」を久々に見た。
ヲタと世間のギャップの面白さが本作の魅力だけど、しかしヲタクの中にも多様性と云う名の
嗜好の違いがあって、結局ヲタクと世間のギャップっていうのは人と人との間にある
それは決して埋まり様のない高くそびえる壁がヲタの中にも存在する、ってのも
また見てて思えるところではあって、それがコミカルに、しかししっかりと暗に示されている
のがまた面白いところでもある。


しかしその穴埋めをしようとしているキャラが、ヲタクでありながら超絶美形(という設定)の
高坂真琴」で、彼の存在は単なるヲタクの「ヲタクという特殊至高を持ちつつも、しかし
社会の持つ外見的容姿の優位性もしっかり兼ね備えた」願望を具現化した姿という
まさにヲタを大言した存在が展開する奇想天外な行動も、よく考えてみればそれは人と人との
間においての自分を投影しているだけの話しで、更に言えばそれは決して優位なものでもなく
むしろ自分が持つコンプレックスをさらけ出しているだけに他ならない訳で。


だけど「げんしけん」を見ると彼の存在が救いに、ヲタクの中だけでの救いになってるのも
また本作における魅力にも繋がっている。
今回主人公の、いわゆる「ギャルな」妹が出てきて、それで件の高坂くんの外見に惹かれて
いくんだけど、それは決してありえない事は見ているこっち側にも理解出来ているんだけど
でもそれが面白おかしく見て取れるのは、結局ヲタクだから壁があるとかそういう事ではなくて
対人関係における人と人との相互理解が成されるか否か、またそれが成されない事を承知で
その穴埋め作業が滑稽だったり、滑稽さが身に染みているからボク等はこの「げんしけん」を
面白おかしく見れるのかもしれない。


ヲタクだからとかいう垣根は本来フィルターであって、そのフィルターの中には
どんなものがしまい込んであるのか、それを模索するのが「相互理解」というヤツで
現代はこのフィルターがクローズアップされる媒体(主にマスメディア)があまりにも多くて
この国に本来張られていたフィルターであるところのヲタクカルチャーが強くピックアップ
されてしまったのは、嘆かわしいくもまた「相互理解」という作業をするに当たっての
理解の端を握っているのもまた事実。
取っ掛かりは多い方がいいと思う。でも結局その先にあるのは埋まり様の無い壁をどこまで
ドリルなどで破壊し垣間見ることをするかの一言に尽きる。
でも俺ははっきり言って全然理解して欲しくないけどね(ちゃんちゃん♪)